私達の地区(旧三尾村・通称アメリカ村)には「房州音頭」という盆踊りが伝わっています。それはこの村のカナダ移民が始まるずっと 以前江戸時代後期頃、村起こしのために名僧圓了に多数の若い漁師たちが率いられ、房州のいわし漁に出稼ぎに行って伝えられた
ものです。以来この「房州音頭」は盆踊りのメインでした。第二次世界大戦までは村を挙げての一大イベントでした。
かつては、踊り手達の殆どがそれぞれに仮装して踊ったそうです。苅萱道心と石童丸、辨慶と牛若丸、茶摘み姿、赤穂浪士、おかめ・ ひょっとこ、近くは、おさと・澤市、貫一・お宮、武男と浪子等の悲恋物語の主人公に扮して、独特の笛・鉦(かね)・太鼓・囃子とこの素朴な唄に合わせて、幾晩も夜更けまで、盛大に踊ったそうです。
又毎年これを機に、新しいカップルが幾組も出来たほほえましいエピソードも残されています。しかし今は、歌い手や踊り手が超高齢化して参加者も殆ど少なく、段々とさびしくなって来ています。
ともあれ、お盆には、先人の功徳(くどく)を讃え、郷土愛の中核としてこの「房州音頭」を伝承発展させてゆきたいと思い、ここに
記した次第です。
三尾光明寺住職三輪信照和尚より
この踊りは、古くは「光明寺の盆踊り」又「関東踊り」とも云われていました。今を遡ること約三百年の昔、当時の三尾浦の光明寺第四世住職・三輪圓了(えんりょう)の時に、痛みのはげしい本堂の再建をしようという声が、門徒のなかから起こりました。しかし、その頃の三尾浦の人々の生活は、とても貧しく、本堂を建てるほどの資金など、とうていかなわぬことは、圓了自身一番よく知っていました。それは圓了が常々、「この三尾浦の人々の生活状態を何とかしなければ」という思いを強く抱いていたからです。「村の暮らしぶりがよくなれば、本堂の再建もできる。何かよい案はないか」と、思いをめぐらしていた時、ふと思い付いたのが、かねがね聞いていた房州(千葉県)のことでした。当時の房州は日本の有数の漁業の地であったことでした。「房州へ行ってみよう、金も稼ぐことが出来るし、又進んだ漁法も習うことが出来る」。そう決心した圓了は自ら先頭に立って、本堂再建の願いを抱きつつ、又新しい漁業の技術習得とを目的に三尾浦の若衆を多数引き連れ房州めざして東海道を下ったのでした。(その後も圓了は若衆を連れて数度も房州へ行っています。)
かくして、出稼によって財を得、そして新しい漁法を修得した彼らは、燃ゆるがごとき郷土愛と仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)の一念から、競って資金を出し、三尾浦の人々や圓了の願いであった本堂が見事に建立されました。そして、その建立された本堂の落慶法要を営むに当って、かつて房州の地において、漁業の合間に覚えた「関東踊り」をこの三尾浦の老若男女が挙って(こぞって)稽古をし、落慶法要を盛大なものになしとげました。やがて、この「関東踊り」と言う名称が、近年になって、いつしか「房州音頭」と言われるようになりました。かつては、この光明寺の「関東踊り」は、近畿地方では大変有名であったと言われていました。
この房州音頭と称する三尾の盆踊りは、メロディーや踊りにも大変よいものを持っています。かつて、カナダ・バンクーバー近郊在住の日本人達がお国自慢を披露した時に、第一位に選ばれました。今でも、カナダの三尾の人々は他府県人や外人たちも含めて、この房州音頭を踊っていると伝え聞いています。しかし、戦時体制下にこの踊りは、集会の自由を抑圧する目的に、
「男女の風紀を乱す」と言う理由で中断されました。その間に、非常に重要な部分で全く復旧の見通しのつかない部分もあります。ともあれ、このような民謡や踊りは、決して固定的なものではなく、時代と共に少しずつ変化してゆくところにこそ本来の姿があり、ここに集録する歌詞もまた幾多の変遷を経て伝えられてきたものと思われます。
次に記載するはじめの三つ「すずきもんど」・「中元讃(さん)」・「吉原百人斬り」は、碇専吉さん(明治十五年生~昭和四十八年歿)、
あとの一つ「清ヱ左口説(せえざくどき)」は、浜千代さん(明治十三年生~昭和四十四年歿)が記録されていたものを、ことばそのままに記したものです。
(昭和四十八年八月十五日記)