▶江戸時代後期に房州から三尾へ
房州音頭は、江戸時代後期に房州へ出稼ぎに行った三尾の漁師たちによって伝えられたといわれている。『カナダ移住百年誌』によると、1724 年(享保9年)の巴 2 月「奉賀御事」で、光明寺住職円了が本堂建直しのため、関東に下っている三尾浦の漁師のところに不足銀の寄付を求めていることから(カナダ移住百年誌編集実行委員会,1989,pp11-12)、この頃に房州へ出稼ぎに行っていたと考えられる。『三尾盆踊りうた 「房州音頭」・歌詞』によると、出稼ぎに行っていた漁師たちが光明寺本堂の落慶法要の際、房州で漁業の合間に覚えた「関東踊り」(房州音頭)を披露した。このことが三尾に房州音頭が伝わるきっかけになった(田端源治さん,pp9-10)。
▶村を挙げての一大イベントに
その後、房州音頭は第二次世界大戦までの間に村を挙げての一大イベントになる。独特の笛の音、鉦、太鼓、囃子と素朴な唄に合わせ、踊り手たちの殆どがそれぞれに仮装して幾晩も夜明けまで盛大に踊った。苅萱道心と石童丸、辨慶と牛若丸、茶摘み姿、赤穂浪士、おかめ・ ひょっとこ、おさと・澤市、貫一・お宮、武男と浪子等の 悲恋物語の主人公に仮装することが多かった。毎年、これをきっかけにカップルが誕生することもあった(田端源治さん,1973,pp3-4)。
カナダ・バンクーバー近郊在住の日本人達がお国自慢を披露した時に、第一位に選ばれたこともあるといった記述や(田端源治さん,pp13)、カナダでは結婚式等で一部の人が歌ったのを聞いたことがあるといった話もある(水田治司さんのお話を参考にしている)。
▶第二次世界大戦で中断に
上記のように三尾で発展した房州音頭であったが、戦時体制下に集会の自由を抑圧する目的で「男女の風紀を乱す」という理由で中断されてしまう。中断されてしまったことにより、復旧の見通しがつかなくなってしまった部分もある(田端源治さん,pp13-14)。
▶終戦後から現在
終戦後から現在に至るまでの間に三尾老人クラブ会長であった田端源治さんとカナダのスティブストンで生まれ、中学で音楽を教えていた田端好弥さんは特に房州音頭の継承に尽力された。1973年(昭和48年)、田端源治さん・田端好弥さんは房州音頭についてまとめた『三尾盆踊りうた 「房州音頭」・歌詞』という資料を作成している。ここには、「すずきもんど」、「中元讃(かるかや父子の対面)」、「吉原百人斬り」、「清ヱ左口説」という4種類の歌詞が記載されていることから、この頃には三尾の房州音頭としてこれら4つが歌われていた可能性が高い。『新風土記6』によると、田端好弥さんは毎年8月に村人を集めて稽古をし、自身も横笛を習った(朝日新聞社,1976,pp156)。1970年代前後には、「房州音頭保存会」を発足した。また、田端好弥さんは房州音頭をテープに吹き込み、千葉県の勝浦市へ送っている(朝日新聞社,1976,pp156-157)。
1988年(昭和63年)には、カナダ移住100周年記念歓迎会で房州音頭が披露されている。2000年代になると、「カナダ移民の父」として三尾で親しまれている工野儀兵衛を偲んだ房州音頭新三尾盆踊り歌「工野儀兵衛翁を偲ぶ」が作られた。当初、盆踊り大会は浜辺で催されていたが、2008年に旧三尾小学校で催されるようになった(この文章から以下は中野幸さん、平尾晴美さん、三尾たかえさん、三尾雅信さんからのお話を参考にしている)。同時期に「工野儀兵衛翁を偲ぶ」が盆踊り大会で初披露されている。2015年から2016年の間に名称が盆踊り大会から夏祭りという名称に変更になり、2000年頃から2日間の練習期間が設けられている。2日前から練習を実施することで祭りの盛り上げを図っている。毎年8月14日に開催されている夏祭りで房州音頭が披露されている。(*2019年から2021年は台風と新型コロナウイルスの影響で中止になっている。)
▶参考
朝日新聞社(1976).『新風土記6』.
田端源治さん(1973 年 8 月 15 日).『三尾盆踊りうた「房州音頭」・歌詞』
美浜町カナダ移住 100 周年記念事業実行委員会(1988).『カナダ移住百年誌』.
中野幸さんへの聞き取り調査(2021年3月15日実施)
平尾晴美さん・三尾たかえさんへの聞き取り調査(2021年3月25日実施)
三尾雅信さん・柳本文弥さんへの聞き取り調査(2021年7月26日実施)
三尾雅信さんへの聞き取り調査(2021年11月21日・22日実施)