~房州音頭はどこから伝わったのか!?~
房州音頭は今から約350年前、光明寺第4世住職、三輪圓了によって率いられ、房州に出稼ぎへ下った当時の三尾の人々によって伝えられたといわれている。房州とは、現在の千葉県南部に当たる地域の総称である。
しかし、具体的に千葉県のどの辺りでなんという唄が三尾の房州音頭のモデルになったのかは分かっていない。
▶仮説 「銚子大漁節」がモデルになった?
三尾のカナダ移住100周年を記念して作られた冊子、『カナダ移住百年誌』に「そして元治元年(1864 年)の鰯の豊漁は土地の民謡「大漁節」を生み、明治に及ぶのである。この地にあった紀州漁民の多くはこの漁不漁の浮沈に漁種・漁場を変えながら対応に苦心したものと思われる」という記載がある(カナダ移住百年誌編集委員会,1989,pp16)。
『銚子の鰮漁業記』によると、「銚子大漁節」は1864年に作られたという記述があるので(福与多喜千,1947,pp6)、『カナダ移住百年誌』に載っている「大漁節」というのは「銚子大漁節」である可能性が高い。このことから、三尾と千葉県銚子市に何らかの関係があったと推測できる。
その一方で、1724 年(享保9年)の巴 2 月「奉賀御事」で、光明寺住職円了が本堂建直しのため関東に下っている三尾浦の漁師のところに不足銀の寄付を求めたと記載されている(カナダ移住百年誌編集実行委員会,1989,pp11-12)。実際に円了が不足銀の寄付を求めた書物が光明寺に保管されていることから、この事実は間違いないだろう。
1724年頃に光明寺本堂の再建に本格的に着手したのなら、房州音頭が伝わったのは1700年代中期頃と仮定できる。しかし、「銚子大漁節」が誕生したのは1864年なので、年代にかなりの差異が生まれてしまう。また、当時房州(別名:安芸国)と呼ばれていた地域と銚子市は位置的に離れている(上図参照)。
どこからどのような唄が伝わったのかは、いまだ謎である。
▶そもそも「銚子大漁節」とは?
『千葉県民謡緊急調査報告書』によると、「銚子大漁節」は、1864年(元治元年)銚子港がかなりの大漁の年になり、飯貝根浦に住む網元[i]の網代久三郎と俳諧師石毛利兵衛が合作したものである。さらに、常磐津[ii]師匠が三味線を、清元[iii]の師匠が踊りの振り付けをした。太鼓、笛、すり鉦を使用しており、網をたぐるような動作が多い(千葉県教育委員会,1981,pp84-85)。
詳細➡https://www.city.choshi.chiba.jp/kanko/tairyoubushi/
(銚子大漁節,銚子市)
動画➡https://www.youtube.com/watch?v=sjF5Rj4cmkQ
(銚子はね太鼓保存会③ 銚子大漁節,公益財団法人 千葉県文化振興財団)
[i] 網元:漁船、漁網をもち、多くの漁師を使って漁業を営む人。
[ii] 常磐津:常磐津節。三味線音楽の一種。
[iii] 清元:清元節。三味線音楽または人形浄瑠璃の一種。
参考
千葉県教育委員会(1981).『千葉県民謡緊急調査報告書』.
福与多喜千(1947).『銚子の鰮漁業記』.
美浜町カナダ移住 100 周年記念事業実行委員会(1988).『カナダ移住百年誌』.
「銚子大漁節」,銚子市ホームページ,
https://www.city.choshi.chiba.jp/kanko/tairyoubushi/
「銚子はね太鼓保存会③ 銚子大漁節」,公益財団法人 千葉県文化振興財団
https://www.youtube.com/watch?v=sjF5Rj4cmkQ