生年月日:1951年4月21日

出身地:和歌山県日高郡美浜町三尾

動画撮影日:2019年11月10日

動画撮影場所:旧三尾小学校

内容

カナダミュージアム館長である三尾たかえさんの父方の叔母にあたる房枝(Fusae)さんが約100年前にカナダに移民されました。カナダに移民されたご家族との手紙のやり取りや、小さい頃カナダから年に2回ほど送られてきた小包の思い出話などお話しくださいました。現在は言葉の壁でカナダにいるご家族とのコミュニケーションがなくなり、30年ほど前に関係が途絶えているとのことです。三尾たかえさんによると昔は三尾でも英語交じりの話し方で、単語を英語に置き換えて会話をしておられたとのお話でした。

カナダからの小包

インタビュー動画内で三尾たかえさんは「子どもの頃、年に2回ほどカナダから送られてくる小包を開けるのが楽しみだった」とお話しくださいました。カナダから送られてくる小包について『わたくしの故郷 なつかしき 三尾』によると「昭和の中頃までは、三尾にはカナダから沢山の小包がとどいた。特にクリスマス前になると、郵便局では多くの小包をリヤカーに載せて配達をしていた。日本はまだ戦後の復興途中で物資が不十分で、カナダよりコーヒーや紅茶・ガム・キャンデー・チョコレート・サッカリン・洋服等が送られてきて、小包の封を開けると、カナダの匂いが漂ってきたものである」(1)と記載されています。

三尾たかえさんがカナダから送られてくるものの中で一番印象深かったと語っているものは、ハロウィンの不気味なカボチャが描かれたノートが送られてきていたことです。「当時、日本ではハロウィンが広まっていなかったこともあり、なぜ不気味なカボチャの絵なのかな?と疑問に思っていました」とお話しくださいました。

また、『カナダ日系社会の文化変容「海を渡った日本の村」三世代の変遷』によると「表2-10を見ると、三尾からカナダへの小包みの発送数が年々減少していて、十年前に比較すると半減していることがわかる。このことは、カナダにおいて日本食や日本に関するものが簡単に手に入るようになったこともあろうが、やはり、世代の移り変わりとともに、移住している親族との関係が薄れていく様子が、数字に象徴されているようである」(2)と記載されています。

出典:山田千香子『カナダ日系社会の文化変容「海を渡った日本の村」三世代の変遷』p98より抜粋

 

三尾たかえさんは「二世である叔母たちが亡くなると日本語を話す人がいなくなり電話で話したり手紙を書いたりというコミュニケーションが無くなって繋がりが無くなってきます」とお話しくださいました。

バンクーバー朝日

三尾たかえさんのご主人である三尾力さんの親戚の野田為雄(Tameo Noda)さんはバンクーバー朝日に所属されていました。インタビューさせていただいた安藤妃史さんの親戚でもあります。

詳細はこちら安藤 妃史 さん | Mio ~America-Mura~ (wakayama-americamura.com)

家系図

森家で移民された方:三尾たかえさんの父の叔母にあたる房枝さんとご主人の向井卯之助(Unosuke Mukai)さん

三尾家で移民された方:三尾力さんの祖父および祖母のシカノ(Shikano)さん

野田家で移民された方:長男である野田為次郎さんとキクノ(Kikuno)さん夫妻と次男

『グランドフォークス在留日本人記念写真帖』で見つけた父の叔母、房枝さん一家の写真

三尾たかえさんによると房枝さんはカナダへ嫁がれました。太平洋戦争が始まると日系人は強制収容所、又は戦時捕虜収容所に入れられるか、自主的に100マイル以上離れた土地に集団で転住しました(※1マイル=約1.6㎞)。当時、房枝さん一家は家族でバンクーバから約500キロ離れたアメリカ合衆国との国境近くのBC州グランドフォークス(Grand Forks)へ集団移動したといいます。最近、三尾たかえさんは『グランドフォークス在留日本人記念写真帖』(3)を見て転住者300名の中に房枝さん一家の写真を見つけることができました。その写真は、1946年3月に戦争が終わり苦楽を共にした人が各地に離れていくにあたり記念に撮影された写真です。その後、房枝さん一家はスティーブストンに戻られました。日本に戻ることはありませんでしたが、1980年頃に房枝さんの子供が日本に来られて三尾たかえさんの家に泊まられたことがあるそうです。三尾たかえさんは当時のことを思い出しながら、その方が英語交じりの日本語でお話しされていたこと、意思疎通には問題はなかったこととお話しくださいました。

地図出典:Wikipediaより

野田家・三尾家

三尾たかえさんによるとシカノさんはカナダへ嫁がれました。シカノさんは野田さんと死別後三尾さんとご結婚されました。野田為雄さんはバンクーバー朝日に所属されていましたが戦前に日本に戻り日清戦争で戦死されています。野田秀さんの家が現在のカナダミュージアムになっています。

三尾力さんの母の兄弟7人がカナダ生まれで、そのうち4人は日本に帰ってこられました。カナダ生まれの二世である三尾力さんの母は1930年頃、日本の教育を受けるため、6歳でスティーブストンから親戚の伯母さんに連れられて日本に来ました。当時は何日もかけて船できました。ご高齢になられた今でもスティーブストンの事を鮮明に覚えておられ、いつか帰りたいという願いもかなわない年齢になられたとお話しくださいました。

参考文献

(1)岡本淨 (2020).『わたくしの故郷 なつかしき 三尾』p15~p16

(2)山田千香子 (2000).『カナダ日系社会の文化変容「海を渡った日本の村」三世代の変遷』御茶の水書房 p97~p99

(3)高﨑幸 松宮哲(1946).『グランドフォークス在留日本人記念写真帖』グランドフォークス日本人会編